「信用」を考察する①|人にはそれぞれ「信用の定規」がある

私とわたし

自分の親から期待する愛情がもらえず
パートナーから散々なまでに裏切られ
まぁその他諸々色んな人達と出会い別れを繰り返していくたびに「相手を信用する」ことに何の意味があるのだろうかと思う様になった

年齢のせいもあるのだろうが最近「人を信用」しなくなったら気が楽になった
決して人間不信ではないが「私の勝手な期待値を相手にかけなくなった」というのが近いかもしれない

そもそも「相手を信用する」とはどういうことなんだろうか?

親は子供に愛情を注ぐもの
夫は妻以外の女性とは肉体関係を持たないもの
子供は親の言うことを聞くこと

うーんなんか違う
いわゆる「世間一般的な常識」を守るとはいえ、この令和の多様性で世間一般的常識と言われても違う

結局は相手の信用度とは
「自分の期待値内であること」

だから絶対的最低ボーダーラインは
「私が嫌だと伝えたことを、軽視しない」
じゃないだろうか

その上で
「お互いに自分の意見が言える」
「互いにジャッジし合わない」
「相手の価値観が受け入れれるレベルである」
これがクリアできる人は「信用できる人」に近い

もしくは、私が「これが良い」と思ってる仕事の進め方、家事のやり方、日常生活のルーティンなどの価値観が近いとこの人も信用できる気がする

だって価値観近いなら私の嫌なことも理解してくれそうだしね
と言うことは「信用」とは

信用とは、同じ定規を持っていることではない
お互いの定規の目盛りを知って、それを雑に扱わないこと
「互いに自分の定規を理解できるかどうか?」
が重要
受け入れなくていいのよ
まずは理解してくれれば
その上で規定外の行動取る人は「私の定規を知った上で規格外の行動する人=まあまあ悪質🤣」
もちろん信用できない

そして「信用できる人」ってその人によって違うわけよ
だって「信用する定規」が違うからね

これは面白い発見

そう考えると私の親も元夫もはなから
「戦力外」なわけだから、私の人生に入れてはいけない

あと問題なのは自分の子供
成長し1人の人として考えた時に「私の定規で測れる人なのか?」

これ難しいね
違った時にそのまま手放すにはなかなかの覚悟が必要
逆に向こうにも「信用の定規」あるから子供達と良好な関係を築くには向こうの定規の中身を知ることも大事

いつまでも親が思っている定規を持っているとは限らないのだ
子供達には子供のフィールドがあるのだ

それが私の定規に合わなかったらさぁどうしょうかね
だからと言って私の定規を強要するのは違う

「私の定規に収まる人間に育ってくれ」ではなく、「お互いの定規を見せ合える関係でいられるか」

もちろん子供だけじゃなくて、いつまでも良好な関係を築いていきたい人とは「相手の定規」を知ってお互いにその枠に入る努力はしなきゃだね

だから、相手に信用してもらえる努力ができない人とは離れた方が良い
最悪、私が大切に思っている人だったとしても相手が歩み寄れないなら、それは諦めるしかない
諦める覚悟を持つことも必要

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