「ケチの村の住人」について考える

私と夫

どういうわけか私の人生は与えられることが少なかった
親はとにかく子供にお金をかけるのを嫌がった
団塊ジュニア世代、確かに今の子供たちに比べれば物を買ってもらえる時代ではなかったのだが


長女だというのに洋服は親戚のお古
自転車もどこからか拾ってきたようなオンボロ
おもちゃも買ってもらった記憶はほぼない
どうしても欲しかったファミコンはたまにしか会わない気前の良い親戚に頼み込んで買ってもらった

その後、結婚した相手も義両親も似たような人だった
結婚式のご祝儀は「親はご祝儀を渡すとか聞いたことない」といい、もちろんお祝いもなかった
その後のライフイベントでもお祝いをもらったことはない
なんならボーナス時期になると「我が家にもボーナスを」をせがんでくるし、葬儀も我が家で負担した
完全にマイナスである

一番身近な親や夫がこんな調子なので「人から何かもらう」ということに関してはほぼ期待しなくなった
それよりも自分で稼いで買った方が早いし欲しいものも手にすることができる

ただ、いつも思っていたのは
「お金が無いなら無いなりに他に何かしてくれれば良いのに」
と思っていたがもちろんそんな気が利くような出来事はない

要はケチなのだ
お金にせよ気持ちにせよ

なので私は「ケチな人」とは付き合わないと決めてる

何かが欲しいわけではない

心意気が「ケチ」な人といると心が荒んでいく感じがするのだ

・ちょっとした贈り物ができない
・手土産すら持たない
・気の利いた一言もない
・でも、もらう時は当たり前の顔してる。なんなら自分たちだけ損したくないのでもらうことに必死

この手の人って、こちらの手間や気遣いには全く無頓着なのに、平気で「自分はやってる!」って勘違いしてることも多い

もう、関わるだけで消耗度が半端ない

・気持ちもない

・お金も出さない
・でも口は出す
・もっともらしいことは言う
・最後には逃げる、スルーする
・それでも何事もなかったかのように、また話しかけてくる

世に言う「厚かましい人たち」なのだ
とにかくモヤモヤしか残らない

そのモヤモヤの原因は
「お金が無いなら無いなりに他にもできることあるだろ?」

子どもの誕生日にプレゼントが欲しいわけでない
おじいちゃん、おばあちゃんの「お祝いの電話」さえくれればこちらは良いのだ
それだけでこちらは気が済むのだ

でも、ある日気づいてしまった

この人たちはお金が無いのではない
私や私の子供にお金を使う気が無いのだ
なので、お金どころか気持ちを使うわけがないでないか!!

なんだよ!もっと早く気づけよオカンヌ!!!

いやね、冷静に考えてみたんですよ
「もし自分だったらどうするのか?」と
仮にお誕生日が近いお友達がいるとする
やだ!私ったら!今月ちょっとピンチで素敵なプレゼントを買えないじゃん!
どうしようかしら??

来月には払えそうならカードで買うかもしれない
いやいや、しばらく支出減らしたいの!なら自分のお小遣いからなにか我慢してプレゼントに回すか
それでもお金足りないならどうする??
とりあえず少ない予算内で友達が喜びそうなものを探そう
それとも手持ちの道具で何か作って渡すかな?
ちゃんと自分の声でおめでとうも言おう
とにかく気持ちを何かの形に変えて伝えたい
とか、相手を思って何かアクションを起こすよね~と

なので「ケチの村」の住人は、私のためにお金も使いたくないし私を思ってアクションも起こす気もない
ってこと

もうそういう人とは、もう付き合わなくていい

親だろうが夫だろうが

私は大切に思ってる人のライフイベントには気持ちを送りたいし物も送りたいしお祝いさせてほしい。
という価値観なので、価値観が合わないんだよ
私には「ケチの村」の住人はストレスでしかない

もうリミットオーバーだな
もう十分やった
もう卒業していい

これからは、ちゃんと人の気持ちに気づける人と付き合おう

だって同じ価値観の人たちの方が心地よい
相手のことを思ってちょっとだけ時間とお金を使える
見返りは求めてない
強制でもない
お互い送りたいときに送ってるだけ

 

モヤモヤさせてくる人とは、関わらなくてよし!
お互いに気持ちの送り合いこして心地よくなる人と付き合えばいいのよ

ここに気付くまでだいぶ時間がかかってしまったが(笑)
大丈夫!今、気付いただけ儲けもんだ!

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